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【無料公開】『月収15万円だった現役介護士の僕が月収100万円になった幸せな働き方』の「はじめに」「さいごに」

 

どうもたんたん(@tantan4423)です。

今回は2/6に発売される自身初の著書の『月収15万円だった現役介護士の僕が月収100万円になった幸せな働き方』の「はじめに」の部分を無料公開します。

購入を迷っている人はこの部分を読んで判断していただけると嬉しいです。

すでに「予約したい」と思っている人は以下のリンクから予約することができますのでもし良かったら読んで見てください。

月収15万円だった現役介護士の僕が月収100万円になった幸せな働き方

【2/6追記】「さいごに」の部分も無料公開する運びになりました。

はじめに 僕の人生散々だった

 

みなさんはじめまして。たんたんこと深井竜次と申します。

この本を手に取ってくださってありがとうございます。

「一体お前は何者?」と思う方も多いと思いますので、少し自己紹介をさせてください。

僕は、島根県にある介護施設で現役介護士として働いている26歳です。

正社員ではなく派遣社員を選択し月8日のみ勤務、そのかたわら副業でブログを始め、月収15万円から月収100万円へ収入UPすることに成功しました。

そんな僕のことを面白がってくれた朝日新聞のニュースサイト「withnews」から取材を受け、Yahoo!ニュースでアクセスランキング1位、NewsPicksの週間ランキングで2位になるほど、多くの方から反響をいただきました。

 

17歳のとき母をガンで亡くした

 

僕は島根県の出雲大社で有名な出雲市に生まれました。

ごく普通のサラリーマンの父と専業主婦の母に育てられました。

幼い頃の僕は、とにかく多動で同じ場所にじっとしていることが苦手な騒がしい子どもでした(今でもそんなに変わりませんが)。

しかし、僕が小学生のときに母親がガンを患い、家と病院を行き来しながら入退院をくりかえしていました。

そして、17歳の高校2年生の冬。自宅でぐったりした母が自分の目の前で救急車に救急搬送され、数日後に母は亡くなりました。

僕は高校2年生で弟は高校受験が間近に迫っていました。

残された父親は本当に大変だったと思います。

それでも、僕たちの前では弱音を吐かず、シングルファーザーとして僕と弟を懸命に育ててくれました。

父には今でも感謝の念でいっぱいですし、心から立派な父親だと思っています。そして、僕はなんとか地元の公立高校を卒業することができました。

 

保育所に就職したもののうつに

 

高校卒業後に僕が目指したのは保育士でした。

中学校のときに職場体験で行った幼稚園で「お兄さんもう帰っちゃうの? もっと一緒に居たかったよ」といってくれた園児の言葉が忘れられなくて、保育士の道を志しました。

家庭は経済的に余裕があるわけではありませんでしたが、地元の保育士養成の専門学校へ通わせてもらい、保育士資格と幼稚園教諭免許を取得しました。

しかし、僕は1年足らずで保育士を辞めてしまいました。

女性の多い保育士の社会に慣れることができなかったこと、不器用で細かな作業が苦手なこと、僕の覚えの悪さや気遣いが下手などの理由で、先輩保育士さんに嫌われてしまいました。

一向に仕事を任せてもらえず、俗にいう「窓際族」で、雑用や人手不足の穴を埋める仕事ばかりしていました。

「他の同期はクラスを持っているのに、僕は一体何をしているのか?」と心がすさんでいき、自分のことを嫌いになっていました。

ついに、うつになってしまい、退職してしまったのです。

僕は、保育士の専門学校に通わせてくれた父親に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

中学生のころから夢だった保育士になれたのに、現実の厳しさと自分の無能さによって、簡単に挫折してしまったのです。

 

介護職の最初の給料は月12万

 

その後、介護職になったきっかけをお話しします。

たまたま知人に介護職の仕事を紹介してもらい、未経験のまま介護業界に足を踏み入れました。

右も左もわからない介護の仕事に最初は戸惑う部分もありましたが、先輩が根気よく介護のイロハを教えてくれたおかげで、不器用な僕でも続けることができました。

しかし、働いていくにつれて大きな疑問を感じるようになりました。

それはお金の問題です。

介護の仕事は好きでしたが、それ以上に給料の低さが大きな障害になっていました。

当初の月収は15万円。毎日のお昼ご飯は節約して、近所のスーパーに売られる100円以下のカップラーメンばかり。

同僚の多くは、給料を理由に退職していきました。

そんな同僚たちの姿は、将来の自分の姿を見ているようでした。

 

安定を確保しながら月収100万円へ

 

そんなとき僕はあるブログに出会いました。

ブログを書いているだけで月に数十万も稼いでいるというのです。

昔から文章を書くことは好きだったので「僕にも稼げるのでは?」という安易な気持ちで、介護職をするかたわらブログを書き始めたのです。

そして、正社員で勤めた施設を3年で退職し、稼ぐために上京を決意。

社会保障の安定を確保しながら、正社員より時給のいい派遣社員を選択し、東京の介護施設で「夜勤専従」の派遣で働き始めました。

東京で出会ったブログ仲間にノウハウを教わり、趣味のブログを副業へシフト。派遣で働く労働時間を減らし、副業を本格化しました。

そして、2019年に入りブログのアクセスが爆発的に伸び、月収100万円を突破。月収15万円だった僕の生活は大きく変わったのです。

 

派遣×副業でゆるく働きながら稼ぐ

 

ツイッターで「#手取り15万円」という言葉がトレンド入りしたことがあります。

僕の介護職の給料は今でも手取り15万円です。

15万円で何ができるでしょうか? 

家賃や生活費を払っただけで手元に残るのはわずかです。

僕は、学歴があるわけでもスキルに長けているわけでもない、本当に平凡な人間です。

そんな僕でも、「このままではいけない」と自分の状況に危機感を感じ、もがきながら死に物狂いで行動しました。

お世辞にもここまで人生が上手くいっているといえなかった僕ですが、「派遣社員×副業」という、自分のペースで働きながら月収100万円が手に入るビジネスモデルを導き出すことができたのです。

本書では、僕が試行錯誤をしながらたどり着いた、「派遣と副業をかけ合わせた幸せな働き方」のノウハウをお話したいと思います。

「正社員になれなくて不安」「就活がうまくいかない」「少しでも収入を上げたい」「もう少しゆるく働きたい」「在宅ワークを取り入れたい」、そんな方に提案したい働き方です。

こんな僕にだってできたのですから、副業は「誰でも挑戦できる武器」だと胸を張っていえます。

給料が低くても、その状況を誰かが救ってくれることはありません。だからこそ自分の人生に責任を持ち、一旗あげてみるのもいいのではないでしょうか?

 

【2/6追記】おわりに

 

手取り15万円の生活が4年ほど続いて、「僕の人生こんなもんか」と思って生きていました。そんなときに偶然「AI理論はミニマリスト」というブログに出会って、僕の人生は大きく変わったのです。

その人の影響でブログを始め、あと先考えずに上京もしました。今思えば無茶苦茶な行動だったと思いますが、思い切って行動をして本当によかった。

以前の僕は、自分さえ収入を得て安定できればいいと思っていました。

しかし、僕は介護業界の中で有名になりつつあり、「この影響力を使って少しでも介護業界に還元したい」と考えるようになりました。

なんの取り柄もなかった僕を受け入れてくれた介護業界には、感謝の気持ちがあります。稼いでいても介護職を続けるのは、心から好きな仕事だから。

世の中にとって意義のある仕事なのに、世間からは「底辺職」などといわれ、介護職の人が肩身の狭い思いをしていることに心が痛みます。

2019年10月にようやく処遇改善が行われて、勤続10年以上の介護職に対して月額8万円が支給されるようになりました。

しかし、多くの若い介護士は支給対象外で生活は苦しいまま。だから、もっと大きな処遇改善を国に促したいのです。

この本を通して、介護業界の実態が世の中に伝わって欲しい。そして介護職の人だけでなく、低所得で苦しむ人たちが少しでも救われることを願っています。

最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。ブログや現実世界で機会がありましたらお会いしましょう。

それではまた。

2020年2月  たんたんこと深井竜次

 

この記事のさいごに・・・

 

お読みいただきありがとうございます。

「はじめに」のところでは僕自身の境遇を書いていますけど、これより読み進めていくと派遣や副業や転職のノウハウについて書かれています。

ぜひ興味がある方は買っていただけると嬉しく感じています。

月収15万円だった現役介護士の僕が月収100万円になった幸せな働き方